『ベヒシュタイン技術者の会』に向けて ベヒシュタイントーンシリーズ Vol.4『『アップライト』の魅力と可能性
『アップライト』と『グランド』の違いは一体何でしょうか・・・?
『アップライト』はピアノ発展史の中で必要とされて開発された発展型であり、とても優れた部分が数多くあります。
1・ピアノトーンをより学び楽しめる
実は『アップライト』の方が奏者にとってピアノの音色を学び楽しむ為により有効な構造体なのです。
『アップライト』は響板と向かい合い演奏する形になります。
ピアノの心臓部である響板をオーディオのスピーカーに例えるならは正面で向かい合って音量音色の変化をよりダイレクトに聴きながら弾ける訳です。
つまり奏者が聴衆にもなれる訳で、自分の出した音色や音量バランス、ペダリングその他の変化を感じピアノトーンを学習するには非常に優れた構造になっています。
これに対し『グランド』は平面バッフルスピーカーを横から聴き弾いているような形になります。
奏者の座る位置は『グランド』の響板の上からと下から出る音の干渉する場所付近になります。
そこで聴く音は上下音位相反転の為に非常に判断が難しいようです。
特により身長の小さいお子さんにとって自分の出しているピアノの音がより不安定で聴こえにくい場所で練習を強いられている事になる訳です。
故に、ピアノを学び始める場合や趣味でピアノトーンをより楽しむ為には自分の出した音が理解しやすい『アップライト』を選択する方がより効果的で喜びも大きいと考えられます。
『アップライト』ピアノの屋根蓋を少し開けて『グランド』同様に直接弦の響きを聴いて演奏することはピアノトーンを学習する為にとても有効だと思われます。
元来チェンバロやピアノは奏者よりサロンの貴族たちのために考案された形なのでしょう。
『グランド』は人に聴いてもらう為に有効な構造体です。
2・防音対策や耐震対策が比較的容易にできる
消音器や防音システム、耐震等も数多く開発され比較して安価で販売されています。
3・購入意思決定時の敷居が低い
価格もリーズナブルで、設置面積が約1/3~1/5と少なく空間の有効利用が出来る上に分解梱包することなく部屋間の移動が可能です。
これらは購入を検討する方々にとってかなり重要なファクターでしょう。
4・コンパクトかつ実は高性能
『アップライト』はコストパフォーマンスが高く響板有効面積が広く音響的には高性能と言えます。
長方形の響板構造は高さ118cmクラスの『アップライト』での響板f0は奥行185cmクラスのグランドと同レベルになることが多いようです。
5・アクションの優秀性
『グランド』のハンマーは常にジャックヘッドに乗っかっている状態にありジャックの戻りが極端に悪くなりそのままでは連打が出来にくいアクション構造であるのは否めません。
そのためレペティションレバーがエラールによって考案されたことはご周知の通りです。
対して『アップライト』はバット形状やセンターピンの位置、ハンマーストップレールによってジャックヘッドが戻る時の負担は少なくペティションレバーは必要とされませんでした。
『グランド』におけるレペティションレバーの効果によって同音連打やトリルに関して比較される事で能力の違いを話される方が数多くいらっしゃいます。
ところが、レペティションレバーは超高速連打状態でのジャックの素早い動きに追いついていない(機能していない)事が物理実験で明確に証明されています。
事実『アップライト』アクションでも超高速連打演奏が可能だそうです。
また、『アップライト』では非常にゆっくりと弾いた場合、Keyの底近くで連打が出来ないとして比較されますが、ゆっくりと弾く場合の連打能力は鍵盤可動域全体を利用できますので実際の演奏では工夫によって容易にカバーできる訳です。
『アップライト』は発展途上でジャックに板バネをつけて戻りをよくする工夫をしたり、鍵盤との連結部をアブストラクトタイプにしたり数多くの発案が施行されてきています。それらの変遷を経て現在の形に整って来た訳です。
また、『アップライト』には『グランド』には無いブライドルテープが装備されています。
ブライドルテープが考案された事により超高速連打がより可能になりました。
にもかかわらず、多くの人が『アップライト』に能力差を感じてしまうのはなぜなのでしょうか?
4つの理由を考えてみました。
① 同音連打やトリル奏法のテクニックが微妙に異なる。
『グランド』はハンマーが打弦の反動と重力で戻るのでより直に鍵盤で感じとることが出来る。
『アップライト』は打弦の反動とバットスプリングとブライドルテープで戻る。
どちらもそうでしょうが、特にアップライトはハンマーの動きや特性を感じながら、つまり楽器と会話しながらの練習が必要になります。
② 鍵盤とハンマーの運動、最終的総合のテコ比率約1:5は同じだが『グランド』は構造上ハンマー比率が若干変化(小→大)する傾向にあり『アップライト』は均等でほぼ変化しない。『グランド』にはサウンドポイントに近づくにつれて敏感になる面白さとむずかしさが存在する訳です。
③『グランド』は鍵を長く設計出来るが『アップライト』は比較すると短くなり各部のテコ比率がそれぞれ異なる。
④ 多く演奏者や調律の専門家、そしてメーカーまでもが「出来ない」もしくは「必要ない」という思い込みが強くそれぞれ工夫の余地がある。
ピアニストやピアノの先生等の演奏の専門家は比較的早期に『グランド』に切り替えて練習された方が多いでしょう。
①の『アップライト』に対応するリバウンドによるトリルや同音連打の演奏テクニックの違いを探求する事もなく『グランド』に移られた方が多い事でしょう。
湿度管理や調整状態が不十分な状態の『アップライト』を弾いていたのかもしれません。
良い『アップライト』ならば弦とハンマーの反動を感じながらタイミングを計り演奏することでより十分に高速連打が可能で、充分にピアノとの会話が楽しめる事を発見出来ると思われます。
②の徐々にテコ比率が変化するアクションは『グランド』と『アップライト』の演奏時の感覚で最も大きい違いと思われます。
『グランド』鍵盤は比較するとテコの比率で初動が軽く感じ徐々に重くなり、『サウンドポイント』付近のタッチ感が加速度的に敏感になる傾向を若干持つ事になります。
それ故に『グランド』の『サウンドポイント』付近はコントロールが難しい反面、多様性があり難しい微妙な変化によって演奏表現の可能性も高いことになるようです。
ところが、『グランド』の優位性の説明では、同音連打やトリルの優劣が独り歩きしている傾向にあるように思われます。
説明しやすい理由もあるでしょうが、実際は『アップライト』でも十分に人の演奏能力限界を超える機能を備えていのです。
つまり多少の奏法(テクニック)の違いはあっても高速同音連打やトリルは十分に可能な訳です。
近年の国産の『アップライト』は屋根板を少し開けて演奏できるストッパーが付かなくなりました。
残念なことですが、私はこの頃から量産型『アップライト』はタッチについて研究や進歩を止めたような気がしてなりません。
③のメーカーにおける鍵盤奥の形状やアクションを含めた長さやテコ比率等の追及がまだ足りていなかったと思います。
『アップライト』は『グランド』に比べて歴史が浅く演奏会で使用される頻度も少なかった事もあるからでしょう。
メーカーが本気で研究開発し、演奏者がハンマーリバウンドをうまく利用する数多くの演奏タッチを探る事、温度湿度等の環境を整備し、調律師が各部分のスティックを修正し、ロス詰めやジャックの戻りを確認しながら行う事やブライドルテープ微調整をしっかりとやる事が『グランド』より必要なのかもしれませんね。
現状はコンサートや発表会場のほとんどが『グランド』になります。
故に多くのピアノファンが『グランド』に憧れ『グランド』視点でピアノを評価、判断する傾向にあるのは歪めないでしょう。
将来、人前で弾くプロを目標として学ばれる方の場合はこの違い(弾く位置で聴く音の不安定さとサウンドポイント付近の敏感さと可能性)を理解して練習する必要がある為、ある時期からは『グランド』でイメージやテクニックを掴む練習が必要になるでしょう。
そして鍵の長さの違いや大きい響板から出る音のタイミング等を学ぶならコンサート『グランド』で練習する必要もあるでしょう。
ところが、ピアノを個人で楽しむという観点や初期にピアノトーンの素晴らしさを学ぶ点について考えてみると、『アップライト』の構造体の可能性がより高いことに気が付くはずです。
今の時代、もはやピアノはプロのピアニストと一部の聴衆の為だけの物ではございません。
ピアノはスピードとパワーと大音量だけが売りでもありません。
良い音色の個性的なピアノにはそれぞれ魅力があります。
ピアノファンの方々は一度そのパラダイムを転換される事を是非お勧めいたします。
ピアノを車で例えると『グランド』はレーシングカーやスポーツカーでベヒシュタイングループの『アップライト』は高級サルーンやツーリングワゴン、ワンボックスなのかもしれません。
スピード競争のタイム向上が目的ならば致し方ないですが、優雅に街乗りやお買い物、ドライブ、旅行と幅広く楽しむには輸入『アップライト』の方が向いているのかもしれませんね。
そして、近年のベヒシュタインやホフマンの『アップライト』における鍵盤・アクション部の進歩は世界的評価をより高くした理由の一つだと思われます。
ベヒシュタインやホフマンの『アップライト』ならば、所有者が管理を適切に行い、我々調律師がしっかり整備すればと必ずかなりのレベルまで『出来る』ようになります。
また、今後のベヒシュタイン・ホフマン『アップライト』の大躍進は他メーカーの刺激にもなるでしょう。
『アップライト』はピアノ入門者が最初に出会う可能性も高く、その構造の長所からも『心に響く音色』が特に重要で、ピアノトーンの本来の美しさやハーモニーの奥深い魅力が発見される事につながります。
ピアノを始める方々の心に響く音を奏でる真の『アップライト』の普及を望みたいものですね。
次回は「ピアノトーンの奇跡『二段減衰』と『連成振動』」 についてお話します。
ありがとうございました。
ピアノパッサージュ株式会社 ピアノ調律師 尾崎正浩
ベヒシュタイントーンシリーズ