ベヒシュタイントーンシリーズ Vol.2
ピタゴラスコンマへの挑戦『弦インハーモニシティー』ベヒシュタインの弦設計とは
ピアノパッサージュ株式会社 ピアノ調律師 尾崎正浩
ピアノに限らず楽器の音には「基音」(第1部分音)と共に「倍音」(第2~部分音)と呼ばれる音を含んでいます。この倍音構成がそれぞれ異なる楽器の特徴ある音色を作っていることはご周知の事と思います。
その中で打弦楽器であるピアノの発音は他の楽器と異なる部分があります。それは、『二段減衰』という独特の音の伸び方をすることや、人が認知できるほどの強い『弦インハーモニシティー』(不協和性)が発生している事です。
弦長は高音部に向かって対数曲線を描きながら短く設計され基音の『弦インハーモニシティー』が徐々に高くなっていきます。
また、バス弦も最低音に向かっては理論値より短く設計され、巻線を使用する事でしなやかでありながら太く短くすることで徐々に強い『弦インハーモニシティー』を発生させ、平均律で4度・5度をほぼ純正に近い『差音』を発生するポイントで調律してもオクターヴが破綻しないように設計されたと考えられます。
鋼鉄製のミュージックワイヤーで鋳物フレームを使用し全体のテンションが20トン近くにもなる現代のピアノは、必ず音色にまで影響を与える『弦インハーモニシティー』を持っています。
『弦インハーモニシティー』の特徴は、基音を含む各倍音すべてに理論周波数より若干高くなる特性が加味されるという事です。
例えばベヒシュタイングランドの場合ピッチ442Hz Key No.49の基音で約0.6~0.7セント(1セントは半音の100分の1)前後高くなる不協和性を持っています。理由は、弦がその長さに比較して鋼鉄製で堅く太いため弦振動の両端や倍音発生時の各節の部分がフレキシブルに曲がらないことで実際の振動域が理論値より短くなるためです。
このため、第2、第3、第4部分音とより高い倍音ほど割合的に強い影響を受けることになります。
また、高音部になるにつれて弦長が短くなるので、弦が細くなるにもかかわらず大きくなります。最高音の88C鍵に至っては14~20セント発生します。結果 として人の耳で快く感じる調律を施した場合、ピアノの最高音Cの基音は理論値周波数より半音の5分の1位高くなります。つまりピアノはピッチA=442Hzで調律しても次高音部でピッチ442.5~443Hz高音部でピッチ443~444Hzの楽器になるわけです。これが何を意味し、どのような効果があるのでしょう。
『弦インハーモニシティー』は弦直径の2乗に比例し、弦長の4乗に反比例し、振動数の2乗に反比例するそうです。そこに弦メーカーの係数を方程式に当てはめことにより算出可能です。同メーカーではグランドの方がより高い傾向にあります。
一般的に『弦インハーモニシティー』が高いと鋭い緊張感のある音色になり、低い場合は柔らかい音になる傾向があると言われています。ベヒシュタインの設計は多くのメーカーの中で最も高く設計されています。それに加えてハイテンションであったことも重要でベヒシュタインの比類なき音色の透明感と各音の独立感はここからも生まれてくるようです。
『弦インハーモニシティー』が高い設計とは音に舞台化粧を施すようなもので、ある程度の距離をおいて聴くとバランスが良い音色になるようです。これはコンサート会場で多くの聴衆に届けるために多少緊張感のある音づくりをして、いわゆる遠鳴りを目指したからで、初めてピアノでリサイタル行ったリストに喜ばれた事でしょう。
また、先ほど述べましたように調律カーブによって平均律の5度の響きに純正に近い透明感を生み出しました。高音部に行くにしたがって高次倍音が整理され少なくなっていく事も幸いしました。
重要になるのは、弦設計が決定されたならば、その他の部品も同一方向性を持っていることが必要不可欠になります。そのコンセプトに合致した響板、響棒、除響板、カットオフバー等の形状や材質も重要です。ベクトルが合ったハンマーや部材選びも必須です。
ご存知のようにピアノは数千もの部品の集合体です。適材適所にたどり着くまで想像を絶する時間と努力が続けられ現在も積み重ねられていることでしょう。
創業者カール.ベヒシュタインは『地面に生えている草の伸びる音を聴くことが出来た。』という逸話が残っているほどの『兎の耳を持つ』と言われた音に関して天才的な能力の持ち主であったそうです。
彼は人類の恵みであるとも言える『ベヒシュタイントーン』をこの世に生み出しました。
近年のベヒシュタインの弦設計について考えると、テンションを少し緩めて響板への負担を減らしながら、そのバランスの黄金律を探求しているようにも思われます。
また、その代えがたい魅力を保つための響板設計も再考・改良されて来ているようです。
常にチャレンジャーであるベヒシュタイン。
ベヒシュタイントーンに魅了されたピアニストや調律師はその演奏や作業が鏡のように自分自身に返って来るジレンマも享受することになります。
なぜ?ベヒシュタインでなければならないのか?
この問いは我々『ピアノ調律師』にとっても永遠のテーマなのかもしれませんね。
次回は「ピアニストが一言『タッチ』と表現したとしても・・・」についてお話します。
ありがとうございました。