ベヒシュタイントーンシリーズ Vol.7  ピアノトーンの奇跡 『アフォーダンスからのピアノ技術』

『割り振り(ハーモニー感・差音)そしてユニゾン(音質)と整音(音色変化)』その1

2023年10月に日比谷のベヒシュタインジャパンでアルブレヒト氏とガーリン氏による技術研修会が行われました。
その質疑応答時に調律の音質について実際に作業を見てみたいと要望がありました。
しかし、彼らの答えは「この短い時間でうまく伝えることは不可能で、ベヒシュタインを目の前に時間をかけてマンツーマンで伝えるしかないでしょう。」というような感じのものでした。

私も自分の方向性の確認のためにもユニゾンの一音でいいから実際の作業を見てみたいと思いましたが、マイスターの対応は当然だとも思いました。
なぜなら彼らにはピアノトーンに対するバックグラウンドがあり、私には無いからです。

バックグラウンドとは何か、
私は日本の音大で声楽を学び優秀なる成績で卒業してイタリアに留学した方が、ローマの街角の早朝に聴いた新聞配達の少年の声に魅了されるとともにショックを受け自信を無くしたという話や、日本人チェロの大家がドイツの青年の出す一つの音に自分の出す音との違いをつくづく感じたなど、多くの話を聞いてきました。

これらのことを踏まえると、ピアノトーンにおけるユニゾン調律の音質作りひとつにも、幼い頃からの生活環境が大きく影響を与えていると考えられます。

例えるなら、我々日本人にとっては当たり前の演歌のこぶしを指導するときに、音程変化や揺らぎのタイミングを数値化したり前頭葉の理屈で説明しないと思います。
繰り返し歌って聞かせて、真似をしてもらうことで徐々に出来るようになっていくのでしょう。
日本の環境で育った方ならば、特有のリズム(間)や音程変化(節回し)が少なからず幼い頃から身についているかもしれません。

ヨーロッパで生活する方々のピアノトーンに対する感性は、ある意味天才長嶋茂雄氏のようなものなのです。
「来た球を、バッと振って打つ。」
「バッ!」とか「スッ!」とか「シュ!」とか・・・。
自然に身についているピアノの音作りがゆえに理屈で細かく説明出来るものではないのでしょう。
具体的な理由や数値的なことを求めても、理論や数値で説明できるものではないのでしょう。

あるピアノ講師から聞いた話です。
彼女は、中学高校と地方都市から東京まで毎週通いレッスンを多くの先生に受けてきたそうです。
苦労の甲斐あって、めでたく音楽大学に入学しました。
音大レッスンの曲目はドビュッシーでいろいろなことを説明してくださるのですが、当時は言われている事が全く理解できなかったそうです。

先生は日本の方でしたが、フランスにも生活拠点がある方だったそうです。
「先生がイラついているのがわかる。」
「あの時の悔しさったらない!」
「とにかくわからないなりにその言葉だけでもしっかりと覚えておこう。」
と決意したのだそうです。

地元のピアノ講師からもドビュッシーの曲は習ってきたわけですが、今までその様なことは一切なかったそうです。
「今考えれば、地元の先生は知らないで教えていたのだと思います。」ともおっしゃっていました。
音大レッスンから10年後、ベヒシュタインを初めて弾く機会に恵まれたそうです。
その時にレッスンでの言葉の意味が初めて理解できたのだそうです。
「ベヒシュタインがすべての方向性を見せてくれた。」と話されました。

話は変わりますが、本来、人の能力や才能は想像以上に優秀だそうです。
あらゆる修練において理屈で考えるより、ゴールに向かって集中し見様見真似の繰り返しが、最も有効かつ最適な方法なのだそうです。
それを、生態心理学(アフォーダンス理論)と言うそうです。

アフォーダンス(英: affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。
アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。
「与える、提供する」という意味の英語の語「アフォード」から造られた。
アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。(Wikipedia)

人類は進化の過程では決して強者ではなく、むしろ弱者だったようで、見よう見まねで柔軟に多くの事を素早く身に着ける能力に長けていたことで、なんとか生き延びてきたのだそうです。
習得には環境によって作られる必然的な行動が効果的で、理屈が先ではないわけです。
つまり、進化や修練にとって最も重要なことはゴール(目標・目的)がしっかりと見えていること。
そして、そこにたどり着くことにのみ全神経を集中して精進すれば、おのずとその人に適合した骨格や筋肉をごく自然に動かし、体が勝手に出来るようになる高い基礎能力を持っているのだそうです。

このことは技術を学ぶ時に理屈をつけて行動すると考え過ぎになって、なかなかうまくいかないし、結果的に回り道になりかねないということを意味してます。
つまり、より深い調律技術を学ぶには、本場ヨーロッパに行って生活し、環境の違いや言語の違いを体感しながら正しいハーモニーや響き(ゴール)を常に感じ、見様見真似が最も効果的かつ有効的な方法ということなのでしょう。

35年前の話ですが、ある友人がウィーンの工場で数か月の整音研修を終え帰国した直後に言いました。
「同じ音作りは日本では出来ないと思う。」
その時私は、音響空間の事だと思っていました。
しかし、それだけではないもっと深い意味だと後に理解することとなったわけです。

私は、日本の四季とともに日本の住宅環境で日本食をいただき日本酒を飲み(笑)日本語を話して生活しています。
ドイツのマイスターも長年私を指導をされてきて、「なぜ?こんなにまじめ?で熱心?な日本の人達に伝わらないのか?」というジレンマを感じていらしたかもしれません。

ヨーロッパで生活する方々が「来た球を、バッと振って打つ。」の説明で10年くらいで理解できるピアノトーンを、理屈をこねたがる私には、なかなか結びつかなかったわけです。

しかし、日本で暮らす私には、遠回りで時間がかかるであろう理屈や数値をむさぼるように求めることになるのは必然なのかもしれません。

今では、この一見無駄な長い道のりにも長所があるとは感じます。 どちらにしても、重要なことは常に物事の本質を見極め、修正することだと思っています。
これはアフォーダンスと矛盾しません。

杵渕直知さんも著書の『ピアノ知識アラカルト』でこの様なことを記されています。
「この道に奥深く入っていきますと、そうした自信は絶対なものではなくなり、一方では恐ろしさも強く感じます。」

「最初に西ドイツから帰国して三年ほどたつと、テクニックはわかっていてもなぜか満足のいく音が出せずに、感覚が鈍ったような錯覚に陥りました。」

「それでまた、感覚を磨きに西ドイツへ。こうゆう繰り返しをここ十五年程の間に十回ほど経験しています。」
また、当時の一般的な日本人の音に対する無頓着さについても言及されていました。
しかし、昨今はとてもいい時代で、耳の訓練が比較的容易に出来るようになりました。

ネットの世界ではありますが、非常に音質の良い音源で映像と共にいとも簡単に比較視聴できる様になったからです。

調律の訓練段階に話を戻しましょう。
「調律はユニゾンに始まりユニゾンで終わる。」とよく言われています。
一理あるとも感じますが、私には違和感も感じます。
確かに、おっしゃる通りユニゾンにはそれらの影響(ハーモニー感・音質)を良くも悪くもかなりの部分でカバーしてしまう能力を持っていると感じます。

しかし、ヨーロッパピアノ音楽の要であるハーモニー感覚を抜きにした考え方はバックグラウンドの未熟な日本では方向性を不鮮明にしたと感じています。
習得初期段階のユニゾンセットのユニゾン技術と上級者の話すところの音質の改善のためのユニゾン技術は全くの別物で、分けて習得する必要があると思うからです。

アフォーダンスが難しい日本の環境では、目の前にあるピアノに寄り添った音程決め(ハーモニー)の修練が優先であり、奥の深いユニゾンに惑わされないことが重要と今では感じています。

「より良い調律の練習手順とは?」の質問の答えは「それぞれに合ったハーモニーを作ることが優先。」となり、「良い音質のユニゾンを作る。」より必ず前になるわけです。

『ハーモニー感のある調律』の実践にはユニゾンで音質を調整するより前に目の前のピアノに合った音程決めをより追求する必要性、重要性を感じたからかもしれません。

調律習得における優先順位
1・ユニゾンのセット技術習得
2・ユニゾン後のハーモニー平均律技術習得(イクオールハーモニーを俯瞰する)
3・ユニゾン音質技術習得と整音技術習得

近年のピアノは、ハーモニー作りの障害となる響板特性についても研究されかなり平均化(優等生化)されました。
とはいえ、形あるものです。
響板特性により響きやハーモニーのずれが必ず起こります。

平均律調律は英語圏で『イクオール調律』と言われています。
イクオールとはどうゆう事でしょう。
弦の不完全性やインハーモニシティー、響板特性の影響によって、理論的には純正となるユニゾン・オクターブも倍音において完璧なイクオールなど現実には存在しない事は皆さんもご理解出来るでしょう。

また、次高音・高音部に向かって調律すると、4度と5度はインハーモニシティーの影響でビートがオクターブで倍々に増える事は決してないことも経験されていると思います。
そこで理論とは異なるピアノの現実についてもう一度考え直すようになりました。
私は平均律という言葉と理屈に縛られていたのかもしれません。
目の前のピアノから美しいハーモニーを奏でてもらうには「平均的仲良し調律」が必要なのかもしれない。
「割り振りにおけるビートの数値表示はあてにならない。」
「より現実的で音楽的で綺麗なピアノ本来の平均律調律法とは、12分の1のニアリーイクオール(仲良し)調律法なのでは?」
このパラダイム転換が重要なところでした。
ピアノに限らず楽器は個体差のある不完全さや不規則な特性を持っている代物です。
初期のころに訓練として精進したユニゾン・オクターブをより完璧に合わせる事に集中するというパラダイムを転換し、すべて並列に、つまり、最大公約的というかすべての音程のニアリーイクオール(仲良し)を考えてみました。

チェック修正しながら心地よいハーモニーを作る方向に調律の『羅針盤』を変更したところ、それにしっかりと応えてくれるのがピアノでした。

過去に実践してきた中で、いわゆる機械調律、電子機器も近年とても優秀で参考になりました。
大きなピッチ変更におけるピアノ全体の動き(緊張・ねじれ)によると思われる調律後のピッチ変動の一貫性が俯瞰できたことなど、色々と学ぶべき点も数多くありました。

しかし、厳密には自然素材による響板の特性や、時代・精度によって左右される弦設計は経年変化によっても個々に微妙に異なり、ピンポイントのサンプルだけに頼った調律カーブには、おのずと限界も見えて来たわけです。

また、一部分音(倍音)に照準を当てて調律する方法にも一つの指針としては効果があるのですが、それぞれの個体差がある中で音楽的ハーモニートータルで見るという目的で偏は偏狭さを感じることも多々ありました。
ただ、決してそれらを否定しているわけではありません。
ぜひ一度実践され、体感されることをおすすめします。
限定利用するだけでも、以前とは異なる次元の結果を出せることでしょう。

我々調律師がユニゾンを単音でとらえて調律するのではなく、ハーモニーを考慮して行えば、現代の優等生ピアノでさえ、より魅力的になると感じています。
ピアノの魅力や個性でもある響板特性を少しでも回避出来るようにその手順も考え直してみてはいかがでしょう。

次回はピアノ本来の平均律『ハーモニー感のある調律』のハードルとなる響板横振動特性の発生についてお話ししたいと思います。

ありがとうございました。

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